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青森地方裁判所十和田支部 昭和38年(ワ)13号 判決

原告 川口新八郎

被告 百石町 外一名

主文

別紙目録〈省略〉記載の各土地をほぼ南北に貫く延長二六〇メートルに及ぶ別紙図面斜線表示の道路は原告の所有であることを確認する。

原告その余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを二分し、その一を原告、その余を被告等の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は

「別紙目録記載の各土地をほぼ南北に貫く平均幅員約四メートル、延長二六〇メートルの道路は原告の所有であることを確認する。

被告百石町は右通路を管理する権利を有しないことを確認する。

被告十和田観光電鉄株式会社は右通路を一般乗合旅客自動車を運行さしてはならない。

訴訟費用は被告の負担とする。」

との判決を求め、その請求の原因として、

「別紙目録記載の各土地は原告の所有地であるが、原告はかねてから土地管理の便宜上右各土地をほぼ南北に貫く請求の趣旨記載の通路(別紙図面斜線部分の道路)を設けていた。

ところが昭和三七年にいたり被告百石町は何等の権原もないのに右通路を町道なりと称し、その管理権ありと主張して原告の所有権を侵害するにいたり、被告十和田観光電鉄株式会社は同年一〇月以来原告の抗議を無視して右通路を百石町上明堂と同町一川目間の一般乗合旅客自動車(定期バス)の運行に使用し、一日往復一二回運行して現在に至つている。

それで右通路に対する原告の所有権確認と、これに対する妨害排除の意味において被告町が前記通路の管理権を有しないことの確認並びに被告株式会社の一般乗合旅客自動車の運行の差止めを求める。

なお、被告両名主張の抗弁事実はすべて否認する。

まず、寄附にせよ、売買にせよ、被告等主張の当時町村が不動産を取得するのは旧町村制第四〇条第六号により町村会議決事項であるが、旧百石村議会でこれに関する議決がなされた形跡はないし、また、在来の村道を整理認定する場合と異り、新たに村道を設置するのは条例事項であるから旧町村制第一四七条により当時の郡長に報告し、その許可を得るべきであるがその形跡もない。したがつて被告町が原告の亡父川口要之助より前記通路の寄附を受け所有権を取得したとするのは手続上の理由からも納得できない。

また、大正初期の頃前記通路によつて貫かれる別紙目録記載の各土地の東側には水路が存在し、更にその東側一帯は字下川原として宅地、原野が存在し海につづいていたものである。当時右下川原には民家、魚加工場、網干場等があり、常時村民の往来交通するところであつた。このような地域に道路の存しない筈はなく、現在公図上その名残りとして橋跡(別紙図面イとして表示する部分)が表示されている。これらの事実よりみれば、百石本村より右橋を経由して前記水路の東側をこれにそつて前記下川原地区を通り三川目に至る道路の存在していたことが容易に推測できる(別紙図面参照)。百石村道路線認定調書「百石村内川口及海岸イ」として表示してある路線はまさに右道路を示すものであつて本件係争通路を示すものではない。ところが大正末期より昭和にかけて右の道路は奥入瀬川及び海に侵蝕されて土地が水没し、また百石沖の鰯漁が不振となるにしたがい、附近一帯に存在した民家、魚加工場、網干場等もなくなり次第に右道路の通行も少くなつて遂には橋跡を名残りに道路も消滅するに至つた。そして、これに代つて本件係争通路が浮び上つて来たわけである。もともと本件係争道路に貫かれる原告所有地は現在でも合計約三、五〇〇坪の広大な面積を有するが、大正年代においては、まだ、分筆もされず二町歩に近い農地であつた。かような広い農地に農道を設けるのは普通のことで本件係争通路も農道(私道)として設けられ、耕作の便に供されていたもので当初は荷馬車が一台どうにか通れる程度のものであつたが、所有者である原告方の容認のもとに交通が繁くなり、特に前記東側の下川原地区の道絡の消滅、さらには近年奥入瀬下流に架橋が完成し浜市川方面から三川目四川目を経て三沢方面に向う人車の近道として利用されるようになつて幅員も広くなり、前記旧道に代つて公道としての役割を果すようになり町道と誤信されるようになつたものである。したがつて公図上からみても本件係争通路が町道である筈はない。

次に、被告町はいまだかつて本件係争道路を占有したことはないし、道路工事補修等したこともない。これらはすべて原告方において行つてきた。被告町が時効により所有権を取得するいわれはない。

原告は本件係争通路を人馬、自動車が通行するのを事実上容認してきたが、これはあくまで容認であつて義務ではない。ところが被告十和田観光電鉄株式会社は私道である本件係争通路を公道なりとしてここを経由する定期バス運行を申請し、被告百石町も町道なりとして右バス運行についての意見を提出したためバス運行の許可がなされるに至つた。土地所有者の承認を得ることなく、その土地を経由するバス路線の開設免許を得、ひとたび免許を得るや行政上の公的権利ありと主張して一方的に土地所有者の権利を制限するのは不法であり、権利の乱用でもある。」と述べた。

立証〈省略〉

被告両名訴訟代理人は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、答弁として、

「原告主張の道路がその主張の如く別紙目録記載の土地を貫通して存在すること(但し道路幅員については後記のとおり)被告十和田観光電鉄株式会社が右道路上を一般乗合旅客自動車を運行使用していることは認めるが、その余の事実は否認する。

抗弁として、

右道路はもと別紙目録記載の各土地の一部で右土地全部は原告の所有する以前その父亡川口要之助の所有に属していたものであるが、右道路部分については大正九年二月二四日旧百石村会において当時村会議員であつた右川口要之助出席のもとに同人より寄附採納の承諾を得て村道と認定され、寄附採納されたもので現在の道路台帳には幅員五、五米として登載されており旧百石村が現在の百石町となるにしたがい町道となり、被告百石町において公共施設として維持管理につとめてきたものである。したがつて被告百石町の所有に属し原告の所有地ではない。もつとも分筆登記等の手続はなされておらず、また、約四五年近くも昔のことに属するので寄附採納に関する関係書類も殆ど散逸して現存しない。原告はこれを奇貨として昭和三七年一〇月一七日右道路敷地買収の申請書を被告百石町に提出したが、大正九年以来町有地として被告百石町が管理してきたものであるから、もとより右申請は容れられる筈はなかつた。被告会社は免許を得て、右公道を一般乗合旅客自動車の運行に使用しているものであるから原告から異をたてられる筋合はない。

仮りに大正九年二月寄附をうけた事実が認められないとしても、被告町は前記道路敷地の所有権を時効により取得しているすなわち右道路は大正九年二月二四日当時の百石村議会の議決を経て村長が村道として認定したものである。その後村道ついで町道として使用し、修理を行い、側溝をつくり、また電力会社が電柱を設置し、被告会社がバス路線を開通するにつき、また、それにともない停留所の標識設置等につき、いずれも町有道路として被告町において承諾を与えてきたものである。かくして本訴提起まで原告先代及び原告から一度も異議を申立てられることもなく、約四三年を経過した。一筆の土地の一部が時効による所有権取得の目的となり得ることは一般に承認されたところであるから被告町は民法第一六二条により前記道路敷地の所有権を時効取得している。なお、被告町が右道路敷地を所有地(旧村有地)と信じていたことは勿論であるが、仮りにそうでないとしても、民法第一六二条にいわゆる「所有の意思をもつてする占有」とは物について所有権と同様な支配をする意思をもつてする占有をいうのであつて必しも占有者がその物の所有者であると信ずることは必要でないから被告町が平穏、公然に占有をつづけて来た事実だけで被告町の前記所有権取得の結論は動かし得ないものと信ずる。

以上の主張がすべて認められないとしても、原告の本訴請求は権利の乱用として排斥さるべきものである。おもうに、市町村道の認定をなし、道路の使用を開始するためにはその前提として土地に対する権原を有することが必要であるが、その権限とは所有権はもとより賃借権、使用借権であつても差支えない。仮りに被告町が本件土地について所有権を有しないとしても、被告町は旧村時代道路認定処分をするについて原告先代の承諾を得ている。今日原告が右承諾を撤回し、前記道路につき被告町の管理権や、被告会社のバス運行権を拒否することはまさに権利の乱用である。係争道路が原告所有地を貫通していることは争のないところであつて、これを被告町は四拾数年間多大の経費を投じて維持管理して来たもので、そのため原告所有地の利用価値が増大し、地価が飛躍的に高騰しておる。原告は被告町の町道維持管理によつて多大の利益をうけこそすれ、何等の損害も蒙つていない。これを廃止することは原告の損失になるばかりか、この道路沿い及び関係地域住民の生活、土地利用に多大の不便を与えるもので権利の乱用というほかはない。

なお、附言するに、旧町村制第四〇条第六号には町村会の議決すべき事項として「不動産ノ管理処分及取得ニ関スルコト」と定められているが、この場合の不動産の取得とは有償取得を意味し無償取得は含まないものとして解釈運用されていたものである。これを受け継いで現行地方自治法第九六条第八号は無償取得を原則として議会の議決事項とせず、それが負担附である場合にのみ議決を要するものと定めている。仮りに旧町村制上無償取得も議会の議決事項であるとしても、議会の議決を経ないで不動産を取得した行為は理事者の責任問題を惹起するにとどまり取得行為それ自体が無効となることはない。

また、百石村道路線認定調書によれば、本件係争道路は「百石十字形ヨリ川口ヲ経テ三川目境ニ至る延長三里の町道の一部であることが明らかである。右の「川口ヲ経テ」とは「川口」なる部落を経ての意味であり、本件係争道路ぞいに川口なる部落の存することは大正三年の測図を基礎として作成された国土地理院発行の地形図にも明かなところであつて、これによれば公道は百石町十字路から藤ケ森、堀切川部落を経て川口部落で人家ぞいに北に曲つていることが観取される。前記百石村道路線認定調書によれば、大正九年には本件係争道路のみならず、多数の道路が村道として認定されているが、これらは本件係争道路を除いて右地形図には記載されておらない。このことは本件係争道路が主要公道であることの有力な証拠であり、被告町が旧村時代から平穏、公然に占有使用してきたことを示すものである。」と答えた。

立証〈省略〉

理由

原告主張の道路(別紙図面斜線表示の部分)がその主張の如く(但し幅員の点を除く)別紙目録記載の各土地を貫通して存在すること及び被告十和田観光電鉄株式会社が右道路を一般乗合旅客自動車(定期バス)の運行に供していることは当事者間に争がなく、右道路部分が公簿上は別紙目録記載各土地の一部をなしていて特に分筆等の手続はなされていないこと並びに右係争道路分を除いて右目録記載の各土地が現在原告の所有に属することは弁論の全趣旨に徴し当事者間に争がない。そして右事実と検証の結果によれば、本件係争道路は延長二六〇米(この点争がない)、幅員は百石本町より東へ海岸にいたる道路が北へ曲る部分が約五、二米、そこから南北へのびるその余の道路部分は四、三米であること(別紙図面参照)が明らかである。

したがつて以上の事実を基礎とする限り本件係争道路は原告所有地の一部とするほかはないこととなる。

そこで被告両名主張の抗弁事実について検討する。

被告両名は本件係争道路は大正九年二月二四日被告町の前身である旧百石村会において原告の亡父川口要之助より寄附をうけることを前提に同人の承諾を得て村道と認定され、寄附採納されたと主張しているが、これを認めるに足りる充分な証拠はない。

成立に争のない甲第二号証の一、乙第一号証の一、二、丙第三号証、いずれも証人中野渡吉助の証言により真正に成立したと認められる丙第一号証の一、二、第二号証に証人三村泰右、同堀川与八郎(いずれも第一、二回)、同橋本真輔、同中野渡吉助、同三村久太郎、同昆久米太郎の各証言及び被告町代表者(町長)尋問及び検証の各結果を綜合すると、

大正九年度旧百石村会議事録(丙第二号証)によると同年二月二四日、二五日の両日にわたり村議会が開かれ、当時村会議員であつた亡川口要之助も出席のうえ、新設道路認定の議決がなされたこと、その詳細として新設道路一号線は路線名が「百石村内川口及海岸イ」と表示され、認定路線の起点、終点については「百石十字形ヨリ川口ヲ経テ三川目境ニ至リ」と示され、認定路線の延長として「道路延長三里、橋梁延長三間」と表示されていること(丙第一号証の一)、そして百石村公道略図(丙第一号証の二)によれば右路線は現在の百石町内十字路より東へ向つて進み「川口」で北方へ曲り三川目へ至る線として図示され、この図示は国土地理院発行の五万分の一地形図八戸九号(丙第三号証)に示されている路線とも符合すること、ところで本件係争道路を含む別紙目録記載の各土地の東側は大正九年当時においては現在よりも更に広い土地があり字下川原として宅地もあり、数は多くはなかつたのであろうが、民家、魚加工場、網干場等があつたこと、また右目録記載各土地のすぐ東側に水路があり、前記百石本村から海岸に出る公道にはその水路を越えるため橋がかゝり、字図にも水路及び橋が図示されていること(甲第二号証の一)右の海岸寄りの下川原の土地は次第に海に侵蝕され、漁業の不振も加わつて往来もなくなり右の水路もやがて消滅して現在の状態になつたが、年寄り達の中にはいまでも水路の東側に右の橋を越えて道路がつゞき三川目方面に通ずる道路が存在して往来した記憶をとどめているものもあること、この道路と本件係争道路との位置は両者が右の水路をはさんで東西にならぶことになるが、本件係争道路の方は前記の橋まで進まずその手前で北に曲り、その曲り方の形状も前記認定路線の図示とは異り可なり急であること、路線名としての「川口及海岸イ」の表示は本件係争道路と既に消滅した東側道路と比べると後者の方がより適当すること、一方別紙目録記載の各土地は昔から原告家のもので相当広大であり私道の必要性は充分にあること、本件係争道路は右原告家所在土地を貫通しているが(この点争がない)、当初は荷馬車一台が辛じて通ずるていどのものが昭和の初期頃から次第に往来がはげしくなり、現在の如く幅員も拡大されてきたもので道路の管理も当初は利用者特に道路ぞいの居住者の奉仕、更に夫役等によつていたが、いつしか町道ということで町の予算で補修され、やがて昭和三四年一月八日付で免許を得て(乙第一号証の一、二)被告会社の定期バス運行もなされるようになつたこと、もつとも町が自ら補修等町道として管理するようになつたのは終戦後のことに属し、殊に昭和二六年以来三代にわたる町長のもとにおいては町道と信じてなされてきているが、それ以前のことは必しも明らかでないこと、ところが固定資産税の面では町当局の手落ちもあつて昭和三七年頃まで別紙目録記載土地の一部として原告の方でその負担に応じてきたが、昭和三七年にいたつて原告より本件係争道路の買収申請がなされてはじめてそれが廃止されたこと、なお、三〇年近くも旧百石村の村会議員をつとめた土地の故老の話でも亡川口要之助から本件係争道路部分の寄附がなされたとの記憶はないし、現在町当局において保管している記録の中にも前記村会議事録(丙第二号証)、村道路線認定調書(丙第一号証の一)、村公道略図(丙第一号証の二)を除いて寄附を明らかにする書類は見当らないことが認められる。前掲各証言中以上の認定に反する部分は前掲各書証特に甲第二号証の一と対比して信用できない。

以上認定の事実からすれば直ちに亡川口要之助より寄附をうけたとするわけにいかないことは勿論、これを推測させるものとして被告等の主張している大正九年二月二四日の旧百石村会の路線認定の議決も、その対象が既に消滅した本件係争道路東側水路ぞいを三川目方面に通ずる道路であつたと考えざるを得ないこととなる。したがつて被告町が本件係争道路の所有権を取得したとする被告等の主張は、その前提から崩れるわけでこの点の抗弁はこれを採り得ない。

次に時効取得の点について考えてみる。

一筆の土地の一部を時効により取得できることは被告等主張のとおりであるとしても、本件において主張される時効取得の起算点は前記の大正九年二月二四日であるから時効取得の主張もまた採用しがたいこと多言を要しない。なぜなら大正九年二月二四日二五日の両日開催の村議会において議決された認定路線は本件係争道路とは別のものであるし、被告町において道路の管理を行うようになつたことが明らかに認められるのは昭和も終戦後昭和二六年以降のことに属し、更には昭和三七年までも私道として固定資産税等の徴収がなされていること前段認定のとおりであるからである。

そうすると本件係争道路が被告町の所有に属するとする被告等の主張はすべて採用し得ないこととなり、したがつて本件係争道路は原告の所有に属すると断ぜざるを得ないこととなる。

そこで最後に被告等主張の権利乱用の抗弁について検討する。

さきに認定したところから明らかなように、結局、本件係争道路は公道(町道)ではないが、四〇年以上も、その当初は私道として以後特に近年は公道と信じられて補修管理され、道路ぞいには多くはないが住家も存し、人車の往来に供されてきたこと、殊に昭和三四年以降は定期バス運行の免許もおり、被告会社の手によつてその運行がなされて来ていること、したがつてこの道路により貫通される周囲の原告所有地の利用価値が増大していることは容易に推測できることであり、その間原告の方で特に手を加えて本件係争道路の維持管理に当つた事蹟のみるべきものはなく、僅かに昭和三七年まで原告所有地の一部として道路敷の固定資産税を負担してきたていどであること、しかも本件係争の発端が昭和三七年に原告より買収申請をなされたことにあるなど諸般の事情を考えると、甚だ困難な問題を内包するが、いま私有地なるが故の一事をもつて被告町の道路管理や被告会社のバス運行権を否定することは私権の乱用にわたるものと解するほかはない。なぜなら本件係争道路は原告先代、原告と二代にわたる間四〇年以上の長年月道路として使用され、昭和三七年までは原告側より格別の異議もなされず経過して、いつしか公道と信じられて終戦後のことに属するとはいえ被告町の手で維持管理がなされてきており、いまこれを廃止することは交通の不便、関係住民の困却を招来すること必至であるにひきかえ、原告側はこの道路の存在によつて周囲の所有地の地価増大等利益をうけこそすれ、損失とみるべきものはないと考えられるからである。

そうすると被告等の権利乱用の抗弁は理由ありということになり、結局原告の求める本訴請求は本件係争道路の所有権確認の部分を除いてその余の部分は棄却せざるを得ないこととなる。

よつて訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条第九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 麻上正信)

別紙〈省略〉

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